涼好茶房

~35歳からはじめる「自分らしく好きなことで毎日を楽しく生きる」ためのエッセンス~ 大阪豊中のお店巡り・オーガニック・通販・風水&占い実践etc.

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制作者

【制作者】について

りょうちんです!(上は自画像)

このページをご覧くださりありがとうございます!

このページは今までの人生の紆余曲折を語っております。

少し長いですが、このブログを作ることになった経緯なども書いてみましたのでご覧いただけると嬉しいです♪

りょうちんのプロフィール

高校卒業後11年務めた会社を、30歳まであと一年というときに出会った人と、両親ともに口をあんぐりと開けて驚いた突然婚により退職。

佐賀の田舎より大阪・豊中市にて30代を過ごしています。

1983年夏生まれ。

両親と、大阪市で働いている5歳下の弟がいます。

小学生・中学生時代

小さいころから大好きだったお絵かきと、セーラームーンによって、漫画家になることを決意。

なかなか欲しいものは買ってもらえない貧乏な家ながらも、少しのお小遣いと、お年玉の端数を使用して、小学5年生の時点で画材をそろえ始め、一つ上の先輩に誘われ、ゲーム経験も無いのに、ドラクエとファイナルファンタジーの同人活動を開始。

いじめられても、登校拒否になっても、漫画家になる夢は消えませんでした。

毎日ノートに絵の練習をして、高校時代には投稿作品も完成させたこともあります。

中学3年生の3者面談では、就職氷河期がいつ溶けるかわからない世の中を生き抜くため、手に職をつけるべく商業科高校への進学を決意。

高校卒業後マンガ専門学校に行こうと考えます。

いたずらに運命が変わった高校時代

高校に入学して1か月。

当時母が勤務していた会社の社長が突然死したことにより、母がパートに転職。父が現在も勤めている会社も不景気により、両親の給料が激減し、あっという間に進学への道が閉ざされました。

「進学は諦めなさい」

専門学校に行ったからと言って、絶対にその道で稼げるのか、それ以前に漫画家になれるのか未知数な将来にお金をかけられない。

せめて弟を大学に行かせるため、私には、「行きたければ自分でお金を貯めて行ってくれ」と言われてしまい、これが決定打で私は何もかもを諦める癖がついてしまいました

(高校も奨学金制度を使用して行っていましたので、専門学校分も合わせると相当売れっ子にならないと返せなくなる金額です。今の私大くらいでしょうか)

弟もリーマンショックにより就職難にはまり、高卒の同級生が有名企業に入社しているのに、自分は契約社員からのスタートに。(今では正社員)

初めての職場で天国と地獄を知る

勤めたのは、本州に本社がある、佐賀の工場の現場事務所でした。

まさかの、引継ぎ3週間という仕事の骨組みしか教えてもらえず、退職者はカナダへ旅立ったので分からないことだらけでしたが、当時の高卒初任給が10万円以下の県内企業が多い中、手取りで13万円以上と、仕事内容も私の性格に合っている会社でした。

(まあ、一部の先輩には相当精神的にやられましたけど…)

奨学金を払い終わるまでは辞められないと、それだけは肝に銘じて、今では考えられないくらい仕事しました。

ある時は風邪をひいて高熱になりながら、またある時はインフルエンザで。謎の蕁麻疹が全身にできた時も会社に支障がない程度には半日お休みをもらったりして仕事しました。盲腸になった時も入院せず薬で散らしまして仕事しました。

台風が直撃しても雪で道路が見えなくなっても車通勤なので休めませんでした。

大変だったけれども、早出残業休日手当がすべて付くのでそれがモチベーションになっていました。

それに、先輩後輩の仲が良かったので、誕生日会で食事に行ったり、年に一度は国内旅行に行ったりと、ずいぶん羽振りのいい生活をさせていただきました♪

ただ、代わりに漫画を描く体力と気力は無くなってしまい、1枚イラストを描くので精一杯と、途中からカラーイラストを描くようになり、20歳になるころには、漫画家になりたいという気持ちは無くなっていました。

両親にもいろいろ買ってあげたり連れて行ったりして、周りから羨ましがられる親孝行娘として、自分でも満足な人生を送っていました。

ところが。

事件が起きたのは、勤続10年目の2012年、ある春の日のこと。

その日は、上司と先輩と三人で、事務所横の別室で、仕事の話をしていました。

話が終わり、事務所に戻る途中突然、最後尾を歩いていた私の口から「辞めたい」と聞こえたものだから、二人が驚いて振り返ります。

それまで、今後はこういうふうにしよう、この人に新しい仕事を覚えてもらおうと、積極的に意見を交換していたのですから。

「辞めたい」と言葉に出してから涙が止まりません。

自分でも、何が起こっているかわからず、一緒に残ってくれた先輩に背中をさすられながら、ただただ泣き続けました。

自律神経失調症。

そのころの私は、アロマを焚いても眠れず。最低限の食事しか食べれず。

さらには、心臓に負担がかかりすぎていて、いつ心臓が止まってもおかしくない状況にまでなっていました。

仕事の繁忙期をちょうど乗り越えた頃なので、疲れていて当たり前。

家に帰り、両親にも包み隠さず職場での出来事を話しました。

両親も驚きました。楽しく仕事をしていたと思っていたのに、私自身、どこまでが楽しくてどこからが苦しかったのかわかりません。

体調のことを第一に考え、会社に事情を説明し、治療のためたびたび会社に遅れていくことと、2年後に辞めることを伝えました。

カイロプラクティックへ、交感神経を調節するために毎日通いました。

調子が良くなって一日おきにしてもすぐに全身の脱力感に見舞われ、結局治療は1年ほどかかり、ようやく月1回の治療までこぎつけ、そのころには結婚式が迫っていました。

仕事がきっかけで、突然婚へ

完成絵

治療を始めて3か月くらいたった時に、主人と出会いました。

まだ20代で、単純に、仕事以外で人と知り合いたいと思っていたし、大阪で就職した弟もいるから遊びに行っても困らないよね~と、大阪に友達を作りたいなと、単純な動機です。

とにかく、そのころの私は、家と職場の往復以外の道を模索していたのです。

(主人のほうは完全にお見合いのつもりだったそうですけど)

仕事量を調整したとはいえ、繁忙期に休むわけにもいかず忙しくしていた私と、毎日22時くらいにしか家に帰れない主人。週末にメールをしても返ってくるのは一週間後の週末の夕方とか(笑)

その時の私は、友人に「彼とは結婚するつもりはないかな~」と話していたくらいの考えでいました。

「あと一年働いてくれないか?」

そう上司に言われたのは、辞職願を出してから約10ヶ月後の、新人さんの入社日をカウントダウンしていた2013年の3月。

会社から必要としてくれているのは、とてもありがたいことです。

今ではパワハラ扱いにされますけど、その頃の会社は、海外を含む大規模な人事異動が行われ、事務所から主任クラスが抜ける話が上がっていました。

さらに私という10年のベテランが抜ける穴をどうやってふさぐかを模索していたところと理解していましたし、私がやっていた仕事は会社内で私しかすべて把握できていなかったので、代わりがすぐ見つからなかったのです。

ともあれ、上司の一言がきっかけで、私は、主人との関係に正面から向き合う決意をし、その日のうちに結婚が決まりました。

次の日上司に結婚報告をしてからは、なんとか引き継いでくれる人を確保、その年の11月まで、2人の引継ぎ者に向けて、わからないことが一つもないよう教え込み、年末付で無事に退職することになりました。

今の職場の社長との出会い

結婚してからの無職期間は、新婚生活を楽しむ反面、主人の帰りが夜遅く、誰とも話せない孤独感にさいなまれ、近所のカフェに通ったり、すぐ母や地元の友人に電話をする日々。

ハローワークに行き始めたら、人と話せることが楽しくなり、毎週のように通い、偶然ハローワークの掲示板に貼ってあった今の職場にめでたく採用され、6年目になりました。

その間、パートとして働くかたわら、仕事でできると便利だなと思い、アビバに通ってフォトショップやHTMLを勉強。

勉強したことを活かしたらいいと、勤め先の社長に習い、アフィリエイトと投資を勉強して当サイトをオープン。

はじめてベビ待ち中。一時期妊活もしましたが、体調不良になり2年ほど中断。

そろそろほしいこの頃です。

しばらく、新しく覚えていた仕事内容がそうとうストレスになり、なかなか新しく投稿ができていませんでしたが、ようやく体も慣れ更新するようになりました。

好きなこと・資格

好きなことは

  • 美味しくて可愛いお店巡り。
  • 絵を描くこと。(イラスト依頼承っております。)
  • 旅行

持っている資格

  • Webクリエイター検定初級
  • 日商簿記検定二級
  • 全経電卓計算能力検定一級
  • 実用英語技能検定準二級
  • 普通車免許

 

公開日:
最終更新日:2019/05/26